Home>トピックニュース>2012/12/19

2012.12.19

人間行動システム専攻 早坂眞理教授のベラルーシに関する研究内容が学術誌 “Arche”に掲載されました。

人間行動システム専攻 早坂眞理教授の第二回国際ベラルーシ研究者大会での発表内容とその後行われたインタヴュー内容が、11月13日付けでベラルーシの学術誌“Arche”に掲載されました。


写真をクリックすると自動的に拡大写真がご覧になれます。
閉じるときは、写真以外の場所をクリックしてください。


   「Японцы даведаюцца, км бы Брансла Тарашкевч」   掲載サイト



「ベラルーシ研究の最前線: “日本人はタラシキエヴィチが誰であるかを知ることになろう”」

                                 人間行動システム専攻、教授 早坂眞理

 2012年9月28日から30日にかけて、リトアニア第二の都市カウナスで開かれた第二回国際ベラルーシ研究者大会に参加する機会があった。人文科学から社会諸科学にいたる幅広い分野からの総勢300人に上る参加者を集めた盛況な大会であった。日本から参加したのは私一人である。私は「ブラニスラフ-タラシキエヴィチの政治活動、極東史の視点から」と題する報告を行ったが、なぜ関心を持ったのかという質問が相次ぎ、新聞記者からもインタヴューを受けるなどして答えに窮してしまった。歴史的にみて日本とベラルーシとは直接の交流はなさそうで、因果関係もないと思われがちだが、頭を冷やして考えてみると、何かあってもよさそうだといまでは考えるようになった。
 タラシキエヴィチという人物は、現代ベラルーシ語の文法書を作成した人物として知られ、学者として将来を嘱望された人物であった。しかし、数奇な運命をたどり、在地民衆の教育啓蒙に乗り出したことが災いとなった。ロシア革命に巻き込まれ、その後誕生するポーランド第二共和制の国会議員として活動するうちに、教育啓蒙家から革命家へ変身していったのである。ベラルーシ系議員団左派の指導者として頭角を現し、やがてポーランド政界の右傾化にともない、労農同盟という左派組織の指導者としてコミンテルン活動の一翼を担うようになったタラシキエヴィチは、不幸にも、ポーランド政界から国家反逆罪の汚名を着せられてとしてソ連側に引き渡され、まもなくスターリンの大粛正に巻き込まれて殺害されるという悲劇的運命をたどった。1920~30年代、ソ連、ポーランド、ベラルーシ、リトアニアの国際関係はめまぐるしく変動し、自前の国家を編成するにはなお混沌としていた。こうしたなかでポーランドとベラルーシの境界領域に生きたタラシキエヴィチの生涯は、変動期の国際関係を知る道標であったといえよう。彼の政治活動を丹念にたどると、日本共産党黎明期のコミンテルン活動とよく似た経緯が観察できる。日本の左翼運動史をめぐって国際比較が可能であるように思われた。
 ベラルーシの新聞記者アレクサンドラ-パラフニアさんは、私の報告原稿を基にインタヴュー内容を加味して新聞記事にまとめ、11月13日付けでベラルーシの学術誌“Arche”に転載してくれた。実は同誌は、反政府系として知られ、上記の国際ベラルーシ研究者大会を協賛する有力な知識人団体である。だから、第二回国際ベラルーシ研究者大会がミンスクでは開かれず、隣国リトアニアで開催されたのかがよくわかった。要するに、ルカシェンコ体制下で政治弾圧を受けるのを避けるためだったのである。因に、わがパネルの司会者は五年前にミンスクの科学アカデミーを解雇されている。
 記事には、ロシアとの国境に近いポーロツク市郊外に建つ聖女イエフロシニア救世主教会の写真が掲載されている。救世主教会は、12世紀に遡るビザンチン様式の建築で、当時のままの姿をいまもとどめ、ベラルーシの心の故郷のような歴史遺産である。16世紀に遡る印刷博物館も近くにあって、ベラルーシの歴史を凝縮している場所である。東欧最古の活版印刷(キリル文字)を行ったF-スコリナが、この町の出身者であった。スコリナは、かの有名なガリレオと同じくイタリアのパドヴ大学で学んでいる。大学の中庭には学位取得者を顕彰するフレスコ画が掲げられているが、そのなかには彼のフレスコ画もある。われわれはいま、情報化社会の真中にのなかに生きている。活版印刷、教育啓蒙、言語復興の意味を情報史の視点から問い直し、ベラルーシ史を眺めるのも面白いのではないだろうか。歴史というのは必ずどこかでつながっているということを、改めて実感した学会参加であった。